英語教育 ― 2006/10/03 00:58
安倍内閣総理大臣の所信表明演説でも掲げられた「教育再生」プラン。
これに対し、伊吹文科相の”小学英語「必修は不要”という発言が波紋を呼んでいる。これが正しいかどうかというのは何十年後かの日本を見てみないと分からないだろう。
僕の考えは、言語というのはコミュニケーションの手段だから、日本語も英語もその手段の一つ。だから、別に英語を必修にしようとしまいと、一番重要なのはものの考え方、考える力を付ける事。
世界的な共通言語である英語を使うとより迅速にコミュニケーションが取れるようになるメリットはある。けど、極論を言えば、母国語できっちりと論じることができれば、通訳を付ければよいだけではないだろうか?
そもそも、英語を必修にするしないという議論をしている段階ではまだまだ世界に追いつかない。
僕は、よりクリエイティブ性を高める教育を目指すべきだと思う。今の教育は社会の中でうまく生きていくための処世術を教えているような気がする。
それよりは小学生の内により多くのものを経験し、失敗し、そこで自分独自の考え方を組み立て、それを主張することができる人間を育てていくこと、これが10年後の日本を支える力になると思う。
それが国語なのか英語なのか、それも手段に過ぎないと思う。何を教えようとも、そこで本当に小学生に学んで欲しい事は考える力だろう。
そういう人材は、自ずと手段は身に着けていくものだ。自分の達成しようとする目的に必要な手段はいくらでも探し、自己実現をしていく。
大丈夫。そんなに格好ばかり付けなくても、無理してつっぱらなくても、人と人の関係から、色んな力が生まれ、自分力は高められていくものだと思う。常識という枠を教えられる教育を一歩外から観て自分を見つめなおすことができたら。
これに対し、伊吹文科相の”小学英語「必修は不要”という発言が波紋を呼んでいる。これが正しいかどうかというのは何十年後かの日本を見てみないと分からないだろう。
僕の考えは、言語というのはコミュニケーションの手段だから、日本語も英語もその手段の一つ。だから、別に英語を必修にしようとしまいと、一番重要なのはものの考え方、考える力を付ける事。
世界的な共通言語である英語を使うとより迅速にコミュニケーションが取れるようになるメリットはある。けど、極論を言えば、母国語できっちりと論じることができれば、通訳を付ければよいだけではないだろうか?
そもそも、英語を必修にするしないという議論をしている段階ではまだまだ世界に追いつかない。
僕は、よりクリエイティブ性を高める教育を目指すべきだと思う。今の教育は社会の中でうまく生きていくための処世術を教えているような気がする。
それよりは小学生の内により多くのものを経験し、失敗し、そこで自分独自の考え方を組み立て、それを主張することができる人間を育てていくこと、これが10年後の日本を支える力になると思う。
それが国語なのか英語なのか、それも手段に過ぎないと思う。何を教えようとも、そこで本当に小学生に学んで欲しい事は考える力だろう。
そういう人材は、自ずと手段は身に着けていくものだ。自分の達成しようとする目的に必要な手段はいくらでも探し、自己実現をしていく。
大丈夫。そんなに格好ばかり付けなくても、無理してつっぱらなくても、人と人の関係から、色んな力が生まれ、自分力は高められていくものだと思う。常識という枠を教えられる教育を一歩外から観て自分を見つめなおすことができたら。
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://schicksal.asablo.jp/blog/2006/10/03/546222/tb
※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。