知識と知恵2008/08/06 18:40

スポニチのニュースで『倉本聰氏「これが最後」テレビ局に絶望』というニューズが。

「かつては知恵を使って作っていたが、今は知識でものを作るようになった」という言葉。すごく訴えかけてくる。

情報が増えた世界、増えすぎた世界の弊害。

インターネットやテレビで見たこと、本で読んだこと、誰かから聞いたこと。知識がいたるところに山積みにされている。
ただ、それを知ることと、体験しそこから生まれてくる知恵は全く異質のものだ。知識は知恵を生み、より深める糧にはなるだろう。でも、全ては己の体験があって始めて知恵となる。知恵は体得するものだと思う。

テレビ局の場合は視聴率と呼ばれるが、きっと企業であるからにはお金。お金が無いと何もできないのも事実。

ただ、お金儲けは目的じゃない。倉本さんは、ドラマというものを通して伝えたいものがあって、それを見たいと思う人がいて、それが上手く結びつくからそれに対価を払う人がいる。

この話は、テレビ局だけに限定されるものじゃないと思う。

ドラマもそうだけど、世の中で売られてるものだって、作り手の想いが詰まって、それが伝わってこないと受け入れられないと思う。どんなにきれいに飾り付けて、いかにも良さそうにみせたって、すぐに分かる。

伝えたいもの、届けたいものそれがあって、それをどうやったら実現できるかな?って考えたとき、それに見合うお金をどう工面して、それが必要な人に届けられるか?って試行錯誤を重ねながら進む。そこには人が集う。そして新しいものが生まれる。
それが出来なくなってるのは、寂しい。

夢や大義の無いところでは良いものは生まれない。集まるのはお金に飢えた者のみ。そこで生産されるものはどんなにお金をかけようとも陳腐なものになる。

そうやって造られた知識(のようなもの?)も世界には溢れてるってことだろう。だからこそ、真に価値ある知恵は自ら実行して得るしかないんですよね。

信じること2008/03/23 11:26

信じるって難しい。ついつい期待をしてしまうから。

こうして欲しいとか。こうなって欲しいとか。
自分勝手な期待を相手に押し付け、そして勝手に失望する。
裏切られたと思う。

信じるものは、その人の言動ではなく、その人そものもではないだろうか?見えてるものじゃなく、その人の内側にあるものを感じ、信じることができる人か判断する。

本当はそんな事すら悲しい考えかもしれない。

この世の全ての人を信じて生きれたらどんなにか幸福か。

人の根本にはその心ってあるから、そうなれるはず。

だけど、生きる力でもある欲望は時に人を惑わす。
信じる心を利用してしまう。

それでも、そうした理由があって、それも含めて信じる。

。。。な~んてそう簡単に出来るわけない。
それでも、この世界で信じられる人見つけて生きれたらきっと幸せは広がっていくと思う。

期待じゃなく、自分が全身全霊で信じる事が出来る人いますか?

平等って?2008/02/03 23:40

またまた随分と時間が経ってしまった。。。
年も変わったし、今日は雪だったし。
まぁ、数ヶ月とはいえいろんな事あったし。

今クールはいつもに比べるとドラマは結構みてるかも。その中でも、薔薇のない花屋エジソンの母ははまってきてる。

エジソンの母の2/1の第4話。
「人は平等か?」。

僕はなんとなく、初詣で神様にお願いして以来、神様は平等か?って考えてた。多分平等じゃないんじゃないかな。
平等ってずるいよな?って思うようにもなってた。だって、平等に何もしないってことも有りだし。

な~んてことを考えると、僕の中では、つまり、人は平等なんだという結論に至った。貧富の差、容姿の差、いろんな差が人にはある。けど、それは差であって、平等とは関係ない。
たとえば、貧富の差のない世界ができるとする。それは既に平等ではなくなってるのではないか?だって、貧富の差をなくす為のなんらかの力が働いているから。
つまり、いろんな差がある状況は平等の証だと思う。その差で、差別をすることは良くない。それで上下関係が出来る訳ではない。そういうことが、平等ってことなんだろう。

年齢、性別、地位...を取除いて、相手に対して真摯に対峙することが必要なんだろうな。

そこに在るもの2007/09/11 01:03

僕らは何故気付かないのだろう?

真理を現す事実はいつも目の前にあるのに。観てみないふりをしているのか?観ようとしないのか?...それとも観る力が備わっていないのか?

自分の業の為すものなのか、変わる、変わり続ける真実に惑わされ、僕は未だ真理に辿り着けない...観えない。

なんだってそこに存在し、本当は、無いものはないのかもしれない。

科学だって、全部そこにある真理を追求しようと、見えないものをみようとしているんだよね。

人は生まれ、いろんな事を知り、そうすることで、真理を観る能力を少しずつ失ってしまうのだろうか?今まで見えなかった真実が見えれば見えるほど、真理の遠さを感じる。(..とはいうものの、真理って観えてないんだけど。)

無題2007/03/31 12:00

1か月以上もブログを更新できなかった...違う、しなかった。
引っ越しもしたし、4月になるし、桜も満開だし、気分一新またいろんな感じた事を綴ろう。

感情という生き物は正直で、僕はそれに支配され、情動によって錯乱状態に陥り。でも僕は思う、それもまた正しい本来の自分なんだろう。
現実から逃げるため、いろんな事に時間を費やし、時間に癒されることを願ったけど、まぁそう思っているうちは無理だってことに気付いた。だって明らかに無理してるから。

「自然体で行こう。」

自分は自分でしかなく、でも一番理解できない存在かもしれない。だって何考えてるか分らないし、答えてくれないんだもん。

だったら、僕は、もっと耳を澄まして、周りの音をしっかり聞いて、声にならない君の考えている事をゆっくりと感じて理解していくしかない。

いつまでも未熟な君を赦し、受け入れ、愛し、意志の力を取り戻し、誰かの作った世界地図を信じて疑わなかったことで気づかなかった、まだ真っ白な君の世界地図に色を付けて行くよ。

「生きる」ことの説明2007/02/18 20:26

人は、生き物は、生きている。

こんな当たり前の事をつい忘れて、その大切さを見失う。

「生きる」ということ自体は芸術であり、「生きる」ということの説明が哲学ではないか。

生きている実感を感じるのは、誰かを愛している時。

そして、欲望が生きる根源。

つまり愛は欲望。

ただ何かが欲しいという欲望ではなく、何かをしたいと思う欲望。

人は神ではない。だから過ちを犯す。

過ちを犯さない苦境から逃れるために、過ちは存在するのではないか。

過ちを容認する訳じゃない。

でも、心はどうしようもなくわがままに歩いていく。

それを体が制しているように感じる。

少なくとも今は。

心と体は別だと改めて感じる。

欲望はとめどなく溢れる。

ごめんなさい。

それでも、僕のこころの欲望は膨らみ続ける。

これは愛なんかじゃない。

だって、愛されることを求めているから。

でもその反省は長くは続かない。

あ~成長しない自分が嫌になる。

死ぬまでこんな事繰り返すんだろうね。

僕は、僕が今の生きている様をまだ説明できない。

理由なんてないし。

ただ必死で。

その繰り返しで。

それはそれでいい、と思う。

いまはまだ。

人生の最後に哲学者のように自分を、自分の生き様を語ることができるのかな。

説明できなくたって、一所懸命に生きる美しさが芸術作品のように残ればいいな。

それは説明がなくっても、それだけで、人を感動させることができるんじゃないかな。

そんな素敵な生き方しよう。