武士の一分2006/12/02 18:54

藤沢周平原作・山田洋次監督作品「たとがれ清兵衛」「隠し剣 鬼の爪」に続く、3部作完結編「武士の一分」を見てきた。

僕のこの映画で感じたもの。それはやっぱり『愛』。

ともに死するをもって、心となす。
勝ちはそのなかにあり。
必死すなわち生くるなり。

三村新之丞(木村 拓哉)の愛。妻の裏切り、その相手を赦すという心。人は憎悪の果てにもきっと希望を見出す力はあると信じたい。憎しみの連鎖は、人の心のみが断ち切れるものだと思う。もしできなければ、人類は絶滅しても仕方ない。

加世(壇 れい)の愛。夫のためだけを、死を覚悟しても想う心。心と体が切り離せないから、体の裏切りというものは心の裏切りとも同化してしまう。セックスの快楽と愛とは必ずしも共存するものではないと思う。哀しいがこれは実体を持つが故の人間の限界ではないだろうか。それでも、加世の愛はひとつの愛の形には違いない。

島田藤弥(坂東 三津五郎)の愛。純粋な悪として表現されるかと思いきや、違った。最後の最後はやはり僕は加世への愛を感じた。そして詳細は描かれてはいないが、武士の一分という言葉は実はこの島田の生き方の方に当てはまるのかもしれない。新之丞のは人間の一分とでもいうべきか?

この映画でもう一つ効果的に使われていたと思う食事のシーン。幸せさの表現として新之丞と加世の食卓。それと完全に対比される鬼役の毒見シーン。(こんな職業あるんだね~。)そしてそこで失明をしてしまうという不幸。そこには人間の普遍的な欲求である食欲で表される、生きる力と普通の中にある幸せが感じされた。

僕の時代劇のイメージというのは、偉い人が主人公なんだけど、そうでない1人の武士(今で言うと公務員?)の話というのは面白い。そこにはその時代の生活や生き方が描かれている。そして、武士という生き方を通して、日本人の心のようなものを感じ、それはおそらく現代の我々の心にも、忘れがちではあるが根付いている心のようなものではないかと思うのであった。

監督:山田 洋次
原作:藤沢 周平
脚本:山田 洋次/平松 恵美子/山本 一郎
出演:木村 拓哉、壇 れい、笹野 高史、坂東 三津五郎ほか

星野道夫2006/12/10 21:44

星野道夫
今日放送のNHK映像ファイル あの人に会いたいで紹介のあった写真家星野 道夫

僕は初めてこの人の事を知ったんだけれども、すごく共感できる部分があった。残念ながら、星野さんは1996年にその生涯を43歳という若さで閉じている。

すごいな~と思ったのは、本で見たアラスカのとある村の厳しい環境で、そこに生きている人とその生活に興味を持ったところ。そこに生きる人に目がいくというのが感動。
そして、その村の村長に手紙を出し、実際に行ってしまうというところ。想いを持ち、それを実行する力、情熱というものは何物にも変えがたい力を与えてくれる。

篠山紀信のインタビューの中で”緊張感の中で見えてくるものがる”という内容の言葉があった。そしてニューヨークという大都市でも、アラスカの田舎町でも、同質の緊張感というものがあり、それが生きている実感のようなものを生み出すのだと。

人は力を得る事で、自分のフィルターが強くなりすぎるのかもしれない。貧しさだけが何かを生み出すとはいわないが、モノ・情報に溺れ過ぎるとそこで人は考える力を失ってしまうのではないかと危惧する。文明が文化を滅ぼすという感覚か。

心もそうかもしれない。痛みを知る人は心の温かさを持つ。

僕はいつも忘れてしまうことがある。本質というものはそこに見えるものに隠されてしまう。写真もそう、芸術作品も、教育も、医療も、ビジネスもそこには人が関わり、そこに関わる人が伝えたいことの手段・表現方法としていろいろな形で具現化されている。
その伝えたい想いを情熱をもって表し続ける。その結果がいつの日か他の人の中で根をはり、花開くことになるのだろう。根がしっかりとはらない花は咲いてもすぐに枯れてしまう。
想いを持ち、伝わるように努力する。僕は人の心にある暖かいものを信じ、それをみんなの心の中に蒔いて育てていけるように、僕の出来る事をやっていこうと改めて思うのであった。

<参考> 風の旅人 編集便り テレビが殺ぎ落とす大事なもの

ナガオカケンメイの考え2006/12/14 22:17

デザイナーのナガオカケンメイ氏の2000年から2005年までの日記をまとめた本「ナガオカケンメイの考え」を読んだ。約400ページの分厚さで、ペーパーバックのような感じで、本屋に平積みされていて、ついつい手にとってページをめくっているうちに家へと連れて帰っていた。(ちゃんと身代金は払いました。)

デザイナーであり、会社の社長であるナガオカ氏の、デザインというものを通しての社会との関わりを創り上げようという意思、苦悩、心の葛藤というものが日記形式というのもあり、すごく分かりやすく伝わってきた。

何かを実際にやっている人の言葉は強い。評論ではないから感動する。 ここに書き上げてもあんまり伝わらないかもしれないけど、僕の好きな言葉をいくつか紹介します。

デザイナーは依頼されたデザインを、『デザイン業界』に見せるためにデザインしていてはダメだと思う。デザインを判定するのは、いつの時代も素人である生活者だ。

マニアに分かってもらいたいポイントをそんな生活者の中に持ち込もうとする時、ビジネスは成立しなくなる。

『経験』とは何か。答えは『挑んだ』中にしかない。

結局、人を通じてしか自分の幸せは確認できませんから、ものすごく『自分の生き方』というのは、自分ではどうすることもできないのかもしれません。

やっぱり人は人が好きなんですね。

真のクリエイターというのは、ゼロからの創造を行う人で、そこにはビジネスという発想はないのが理想。一旦仕事というものに変わると、相手が発生し、そこには与えられる仕事がある。既に開始点がゼロではなくなる。それでも、クリエイターとしてのプライドを持って、相手の期待以上のものをクリエーションするのがプロの仕事だろう。その積み重ねでいつかは、ビジネスという観点を超えた何かを社会に残せる日が来るんじゃないかって思った。

ナガオカケンメイ
1997年にグラフィックデザインと映像制作の新しいクリエイションを創造する集団「DRAWING AND AMNUAL」を設立。2000年に、デザイナーが考える消費の場を追求した「D&DEPARTMENT PROJECT」を開始。2005年にはロングライフデザインとテーマとした隔月刊誌「d long life design」を創刊。

   
 

   

スーパーエッシャー展 ある特異な版画家の軌跡2006/12/16 22:00

スーパーエッシャー展
Bunkamura ザ・ミュージアムで開催されているスーパーエッシャー展

初日(11月11日)に行ってきたんだけど、記事にしていなかった...上手くまとめようと思うとなかなか書けず、かといっていつまでたっても上手く纏まる訳でもなく。という訳で、残りわずか、来年1月13日までとなったスーパーエッシャー展のご紹介。

オランダの版画家M.C.エッシャー(1898-1972年)の作品からハーグ市立美術館所蔵の約160点の作品と、様々な資料からなる総計約180点のエッシャーの作品が展示されています。

入り口でニンテンドーDSを貸してくれ、DSでの作品紹介、音声案内というのは結構斬新で良かったかな。けど、気付くとDSを見てるのか作品を見てるのか分からなくなる時が...

エッシャーの作品の特徴で目を惹くのが、やはり「平面の正則分割」を駆使した表現技法。超有名な「昼と夜(Day and Night, 1938)」や、極限シリーズ。僕は、「円の極限Ⅳ 天国と地獄(Circle Limit IV Heaven and Hell, 1960)」が好き。円というのは不思議なカタチ。そこに天使と悪魔が交互にでも整然と存在する。人の心のバランスのようなものを感じる。

そしてその空間と対称性の中でエッシャーが作り出した、だまし絵(Optical Illusion)と呼ばれる世界。「上昇と下降(Ascending and Descending, 1960)」「滝(Waterfall, 1961)」は皆さんも一度は見たことがあるのでは?その習作には描きかげる過程が見れてワクワクした。

全体を通して僕の感じたもの、それはエッシャーという人物の物事の捉え方の独創性。

エッシャーのこんな言葉がある。

版画のなかで私は、私たちが美しく秩序のある世界に住んでおり、ときにはそう見えても、決して無形の混沌のなかにすんでいるのではないということを証明しようと努めてきました。

版画という、一見ものすごく制限を受けそうな表現技法だけど、そこにこそ彼の考えの根源があるのではないかと思った。鏡面での表現。それは常に対象を対称として捉え、一見混沌に見える世界に秩序を創り出す。

そして「光」。光の表現。見えているもの(物質=光)。感覚で捉えようとするとそれは物質でなく、見えているものに捕われない何かがそこに見えてくる。人が心で感じた光。それが1人1人の人間が持つ独自の世界観だろう。

今回の作品で僕が一番惹かれたのが、「花火(Fireworks, 1933)」。光と闇、刹那と永遠、点と面、直線と曲線、あらゆる二面性を感じさせてくれた。

エッシャーの表現する作品には、現実ではない世界が広がる。エッシャーの視点から見えた世界をあなたも感じてみて、日常の世界がこんなにも違って見えるという非日常を体験してみてはいかがですか?

会   期: 2006年11月11日(土) ~2007年01月13日(土)
開館時間: 10:00 ~19:00
会   場: Bunkamuraザ・ミュージアム
主   催: Bunkamura、ハーグ市立美術館、日本テレビ放送網、NTVヨーロッパ、読売新聞東京本社
後   援: オランダ王国大使館

ビル・ヴィオラ: はつゆめ2006/12/23 22:13

Bill Viola
Bill Viola: Hatsu-Yume (First Dream)に行ってきた。

映像作品が、16作品展示されている。どれも独特の世界観で作られて、展示方法も斬新だった。一つ一つの作品が10分~の作品なので、ちゃんとみようと思うとかなりの根気が必要。(僕だけかな?)
基本的にスローモーションの映像が中心なので、作品によっては眠くなってしまうことも....けれども、そこに映し出される映像、音、そして人物の表情はそこではじめて気付くものだ。

《クロッシング》は、火と水で破壊と再生というものを表現している。火は立ち上り、水は降りかかる。重力に対しても火と水は違う動きをするんだな~って思った。
違っていても、その力によって人は浄化され、そしてこの世界は再生・輪廻の繰り返す。《ミレニアムの5天使》も超自然的な映像に、闇と光、死と生といったものを感じた。5つの巨大なスクリーンの各々の色とその配置によって創り出される空間が素晴らしかった~。
《驚く者の五重奏》や《静かな山》では人間の感情が豊かに表現されていて、見終わった時には、やはり心の浄化のといったもので作品のつながりを感じた。(なんか乱文になってしまったかな...)

最初に書いたんだけど、動きが少なく見えるんだけど、そこに表現しようとしたものはその方法でしか表現できないものなんだと思う。全体の作品を通して感じたものは、破壊・怒りといった負(と言っていいのかわからないけど) のエネルギーを感じるんだけど、最終的にはそこから解き放たれる。

作品を眺めている自分の表情はどのように変化し、それは他者にどのように受け止められるのだろうか...

年明けまでやってますので、ビル・ヴィオラの世界に触れてみてはどうですか?

作品のいくつかをご紹介。

《クロッシング, The Crossing(1996)》
会場に入ると闇。かなり広い空間の真ん中に巨大なスクリーンが一つ。インパクトあります。実はスクリーンは両面で、異なる映像が映し出される。1人の男が遠くの方から真っ直ぐに歩いてくる。かなり近づいてくる!ふと立ち止まると男の足元に小さな炎が現れる。もう一方の画面では、水滴が男の頭上から落ちてくる。炎も水も激しくなり、いつの間にか男は消滅してしまう。

《ストッピング・マインド, The Stopping Mind(1991)》
大型スクリーンが部屋の4面に設置されている。部屋の中央に立つと囲まれる感じ。スクリーンには、時の止まった映像が映し出されている。が、突然、轟音とともに気まぐれに動き出す。お経のような囁き声が絶え間なく流れている。

《ラフト/漂流, The Raft(2004)》
19人の男女。人種も年齢も異なる人々。突然大量の水が、彼らをめがけてホースから放たれる。みんな水の圧倒的な力で倒されていく。放水が止まると人々は安堵と焦燥の表情で立ちつくす。この映像がスローモーションで展開される。

会   期: 2006年10月14日(土) ~2007年01月08日(月・祝)
開館時間: 10:00 ~22:00 | 火10:00~17:00
会   場: 森美術館 六本木ヒルズ森タワー53階
主   催: 森美術館、朝日新聞社
助   成: アメリカ大使館

いじめ2006/12/30 00:54

あ~あっという間に今年も終わってしまう。けど、いろんな事がありましたね。
「太田総理と秘書田中ダメな日本を大清掃!幸せ願って大激論SP」日本テレビ)でも、国民の怒り年間ベスト10でも1位になっていたのがいじめ問題。今年の10大ニュースってのでも、だいたいベスト10入りしている。

僕は「いじめ」というものはおそらく無くならないと思う。いや、確信する。それは戦争がなくならないのと同じ、ヒトがヒトたる故に生じるものだと。

個人は個人の考えを持っている一方で、集団に属してしまうと集団心理の働きによって、個人の考え如何に関わらず、意識しない行動を取るものだろう。

でも、なんか矛盾を感じる。個人の意識しない「意思」が、集団になることで生まれるのだろうか?実は個人がその潜在意識として持っているものが表層に出てくるのではないだろうか?責任意識の分散によって、自分の中の悪魔!?が活性化されるみたいに。

「赤信号 みんなで渡れば 恐くない」

ヒトの弱さであり、欲望に支配された理性では逃れきれない性なのだと思う。

でも、「いじめ」というものを肯定する訳ではないですよ。「いじめ」はよくないです。だから、自分という人間を受け入れ、行動を起こす前に自分を省みることができるようになることが必要と思うんです。

よく議論されているのは、誰が悪いか。誰?そんなの、誰か1人のせいじゃないよね。

みんな悪いんだと思う。いじめは僕の幼いころからずーっとある。それで命を亡くした人もいる。何も変わっていないのに、事件がおこると騒ぎ立て、そして時とともに忘れる...

命の大切さを主張し、自殺をしないように訴える。どうかな?僕が自殺しようとする者であれば、僕にはその声は届かないだろう。だって、その時は命の大切さがどうのこうの言われようとも、生きる事が絶望なのだ。死によってしかその絶望から開放される手段がないんだ。

僕だったら、その時に悩みの本質でなくてもいい、けど話せる人が傍にいてくれるだけで、救われるかもしれない。それは、親でも、先生でも、友達でも、恋人でも、子供でも、ひょっとしたらペットや植物、自然かも。それでも、ちょっとでも、自分の中の何かを吐き出せればそれでその時は十分なんだ。それで、一瞬でも何か希望のようなものが見えるかもしれない。

僕らは人間なんです。すごく弱いんです。だからみんなで力を合わせていきていくしかないんです。

そうしたら、「いじめ」のない世界だって作れるのかもしれません。理想は失ってはいけないし、理想だと諦めてしまうとそこで全ては終わってしまいます。少しずつでもそんな世界に近づけて、例えば、来年の今頃、自分の周りから一ついじめが少なくなった!って言えるといいですね。