人頼み 傷つかぬ恋2007/01/08 23:15

花火
今朝の読売新聞朝刊、社会面にこんな話題が。
恋愛指南本大人気 恋文の代筆も

モテの極意59
モテる人の法則
小悪魔な女になる方法
といった本が書店では人気ということ。確かに本屋さんにいくとたくさん並んでるかも。「小悪魔」ってのは結構昔からあるよね。

そうだな~、「もてたい」という気持ちはわかる。もっと広げると「好かれたい」「気にかけて欲しい」かな。きっと世の中は愛情に飢えているんだろうね。でも、傷つきたくない。
恋に対しては傷つくことを恐れてしまうな。

言葉遊びかもしれないけど、恋と愛。僕の中でもまだ分からないことばかりなんだけど。恋は相手に求めてしまう心。自分の抱く恋心に気付いて欲しい、こっちを向いて欲しいって想ってしまう。
愛は、与えたいと想う心。最近思うんだけど、これってエゴかも。相手の気持ちとは無関係に相手を想う。やっぱり究極のエゴ。でも仕方ない。愛してしまったんだから。

でも、どっちも結局は「好き」って事なんだよね。

で、僕がなぜこの記事が気になったかというと、恋文(という書き方も今では新しく感じるかな?)の代筆。(女性向け雑誌のフリーライターの大崎智代子さんの記事として紹介されている。)

自分の想いは自分で言葉にしないといけないと思う。かっこいいとか悪いとか、分かりやすくとか、多分そんなものではない気がする。ラブレターとか誰か(限定した相手)に伝える言葉は、僕はテクニックではなく、どれだけ想いを込めるかだと。
最近、恋愛小説家を見たからかな?キャロルがユドールに書いたThank you noteとかいいと思う。
そういえば、虹の女神では、智也があおいにラブレター書いてってお願いしてたな...

なんか、そこだけは人に頼ってはいけない気がする。

自分の気持ちを分かって欲しいと強く願うんだけど、嫌われたくないという気持ちもある。これが強くなると、深読みというか、計算というか、そういった考えが浮かんでくる。

この気持ちもわかるんだけど、それでも、自分の想いは自分の言葉で自分が直接伝えたい。上手く書こうとしたけど、理屈じゃないんだな。そのほうが好きなんだ。

恋と愛の間で人は揺れ動くのかもしれない。人を愛することは難しい。傷つくこともあるけど、僕もいつの日か「あなたに出会えて、死ぬほど好きになってすごく幸せです。」って言葉を伝えたい。それだけで心が満たされることもあるんだ。

あけましておめでとうございます2007/01/01 20:50

初日の出
新しい年が始まりました。時間というのは切れ間なく続いているんだけど、なぜか新しい気分に切り替わる。不思議だ~。

毎年恒例の初詣のおみくじ。初詣の場所は毎回違うんだけどね。今日は、赤坂の豊川稲荷。で、今年は「小吉」!吉から昇進!ラッキー。

見禄隔前渓・労心休更迷・一朝逢好渡・鸞鳳入雲飛
宝は目の前なのにとれない。あれこれ考えてまた迷う。一旦渡れば、素晴らしい運が手に入る。

う~んもどかしいが、最終的に素晴らしいのであればいいか。
今まで僕は迷いの途中でその迷いから逃げ出していた。だから、迷いに迷って、その迷い道を渡りきってみよう。

今年も皆様にとって幸せな年でありますように。

いじめ2006/12/30 00:54

あ~あっという間に今年も終わってしまう。けど、いろんな事がありましたね。
「太田総理と秘書田中ダメな日本を大清掃!幸せ願って大激論SP」日本テレビ)でも、国民の怒り年間ベスト10でも1位になっていたのがいじめ問題。今年の10大ニュースってのでも、だいたいベスト10入りしている。

僕は「いじめ」というものはおそらく無くならないと思う。いや、確信する。それは戦争がなくならないのと同じ、ヒトがヒトたる故に生じるものだと。

個人は個人の考えを持っている一方で、集団に属してしまうと集団心理の働きによって、個人の考え如何に関わらず、意識しない行動を取るものだろう。

でも、なんか矛盾を感じる。個人の意識しない「意思」が、集団になることで生まれるのだろうか?実は個人がその潜在意識として持っているものが表層に出てくるのではないだろうか?責任意識の分散によって、自分の中の悪魔!?が活性化されるみたいに。

「赤信号 みんなで渡れば 恐くない」

ヒトの弱さであり、欲望に支配された理性では逃れきれない性なのだと思う。

でも、「いじめ」というものを肯定する訳ではないですよ。「いじめ」はよくないです。だから、自分という人間を受け入れ、行動を起こす前に自分を省みることができるようになることが必要と思うんです。

よく議論されているのは、誰が悪いか。誰?そんなの、誰か1人のせいじゃないよね。

みんな悪いんだと思う。いじめは僕の幼いころからずーっとある。それで命を亡くした人もいる。何も変わっていないのに、事件がおこると騒ぎ立て、そして時とともに忘れる...

命の大切さを主張し、自殺をしないように訴える。どうかな?僕が自殺しようとする者であれば、僕にはその声は届かないだろう。だって、その時は命の大切さがどうのこうの言われようとも、生きる事が絶望なのだ。死によってしかその絶望から開放される手段がないんだ。

僕だったら、その時に悩みの本質でなくてもいい、けど話せる人が傍にいてくれるだけで、救われるかもしれない。それは、親でも、先生でも、友達でも、恋人でも、子供でも、ひょっとしたらペットや植物、自然かも。それでも、ちょっとでも、自分の中の何かを吐き出せればそれでその時は十分なんだ。それで、一瞬でも何か希望のようなものが見えるかもしれない。

僕らは人間なんです。すごく弱いんです。だからみんなで力を合わせていきていくしかないんです。

そうしたら、「いじめ」のない世界だって作れるのかもしれません。理想は失ってはいけないし、理想だと諦めてしまうとそこで全ては終わってしまいます。少しずつでもそんな世界に近づけて、例えば、来年の今頃、自分の周りから一ついじめが少なくなった!って言えるといいですね。

言葉2006/10/21 18:19

「初めに言葉ありき」

言葉は何故必要なのだろうか?誰かに何かを伝えるため?

言葉が無かったとしたら、僕は自分の頭のなかでこうやって(ブログを書いてような)、創造という行為は出来るのだろうか?

赤ん坊は、喜怒哀楽の感情はあるんだろうけど。それにいつの間にか言葉を覚えることによって説明を求めてしまうようになるのだろうか。

そう、だからこれは創造というよりは説明。感じるものは既に僕の心の中に存在しているのである。それを表現する手段としての言葉は、やはり他人にそれを伝えるための大切な道具なのだろう。

でもね、最近言葉で表現できない事がある。いや多分言葉では簡単に一言で表現できる。でも、自分の中にあるその想いは、その言葉で十分に伝えきれない、伝わらないと思う。モドカシイ。この想い人に伝えるのはこの言葉しか方法がない。

この言葉になる前の自分の想い。イメージとしては魔女のお鍋でぐつぐつと煮え返っているような感情の渦。出来ればこれを見せられたらいいのかもしれない。頭の中にあるのか、心臓に近い場所にあるのか、場所さえ知らないんだけど。ひょっとしたら自分の中にはないのかな...

きっと心の中の想いというものは、言葉だけでは伝わらないような気がする。その人と過ごした時間、触れ合った時間、それに交わした言葉それらを通してお互いの中に生まれる感情。

その時って言葉というものを超えたコミュニケーションが出来ると思う。それは、何気ない言葉であっても、それだけで全てが伝わる時が来る。いや、むしろ言葉が必要なくなる時もある。もうそれだけで十分なんだ。

なぜか「大好きです。ありがとう」ってそれだけ伝えたくなった。

何もできない2006/10/13 17:48

そこにあるようで手が届かない。


蜃気楼のようにどんなに必死にもがいてもたどり着けない場所。


幻想だろうか?


僕はこの場所から、眺めること、見守ることしかできないのか。


無力感漂う日々から逃げ出したくて...


でも、でも、それでも、いいと思えた。それくらい暖かい、大切なものを僕はただ守りたい。


哀しいけど、そういう気持ちになれる幸せを感じる。


哀しいからこそ。


そういう自分で創りだした幻想で、僕は自分自身を欺き、生きていくことを選んでしまったのかもしれない。


何か本当か。


近すぎるから余計に見えない。


そして何もできない。

英語教育2006/10/03 00:58

安倍内閣総理大臣の所信表明演説でも掲げられた「教育再生」プラン。

これに対し、伊吹文科相の”小学英語「必修は不要”という発言が波紋を呼んでいる。これが正しいかどうかというのは何十年後かの日本を見てみないと分からないだろう。

僕の考えは、言語というのはコミュニケーションの手段だから、日本語も英語もその手段の一つ。だから、別に英語を必修にしようとしまいと、一番重要なのはものの考え方、考える力を付ける事。

世界的な共通言語である英語を使うとより迅速にコミュニケーションが取れるようになるメリットはある。けど、極論を言えば、母国語できっちりと論じることができれば、通訳を付ければよいだけではないだろうか?

そもそも、英語を必修にするしないという議論をしている段階ではまだまだ世界に追いつかない。

僕は、よりクリエイティブ性を高める教育を目指すべきだと思う。今の教育は社会の中でうまく生きていくための処世術を教えているような気がする。

それよりは小学生の内により多くのものを経験し、失敗し、そこで自分独自の考え方を組み立て、それを主張することができる人間を育てていくこと、これが10年後の日本を支える力になると思う。

それが国語なのか英語なのか、それも手段に過ぎないと思う。何を教えようとも、そこで本当に小学生に学んで欲しい事は考える力だろう。

そういう人材は、自ずと手段は身に着けていくものだ。自分の達成しようとする目的に必要な手段はいくらでも探し、自己実現をしていく。

大丈夫。そんなに格好ばかり付けなくても、無理してつっぱらなくても、人と人の関係から、色んな力が生まれ、自分力は高められていくものだと思う。常識という枠を教えられる教育を一歩外から観て自分を見つめなおすことができたら。